いかがお過ごしでしょうか。
今日から将臣ルートです。
ただ恋愛面の話よりも”いつ将臣が京に来たのか”ってことに主軸を置いて書こうと思うので、そっちの感想が見たい方はすみません。
ネタバレもちろんですが、史実と創作を混同しているので苦手な方はお戻りください。
まず宇治川の戦いのあと、三草山の戦いの前に存在する二章。
ここで再会する将臣は「こっちに来たのはだいたい三年半前だな」と言っています。
宇治川の戦いは寿永3年1月20日(1184年2月10日)のため、わかりやすく西暦(新暦)で書いていくと1180年8月に来たことになります。
このSSが京に来た頃の様子を話していた時のものです。
平清盛に拾われ、死んだ息子・重盛に似ているという事で気に入られたと話していました。
つまり生前の平清盛のに会っていて、重盛には会ってないということになります。
望美がいる現在の清盛は将臣のことを重盛本人だと思っているため、似ている判定した頃の清盛は生前のものです。
清盛が亡くなったのは1181年3月27日、なんか辻褄が既に合ってきてて嬉しいですね。
将臣が京に来た頃はまだ望美も譲も来ていなかったんですが、彼は邸のみんなにも手伝ってもらい2人を探していました。
そうだよな…望美たちは当時が怒涛の展開すぎて将臣を探している暇なんて無く、いざ会えたと思ったら戦場ですなんてひどい話です。
望美と譲は源氏側に拾われ、来て数ヶ月で初陣まで経験します。
ちなみにここのSSは九郎が輝いているときのものです。
人の沈んだ空気を晴らす九郎に、弁慶が「これこそ、将として何物にも代えがたい九郎の素質です」と自分のことのように嬉しそうに話していました。
中の人ってサイコパスでも同じように扇動するのが得意!みたいなキャラやってますよね…合うのかな…。
こんな話もあったな…と思って追加してみました。
史実によると平重衡は一ノ谷の戦いで馬を射られ捕らわれています。
ルートによっては捕まる前の平重衡に出会えますが、このSSもおそらく史実通りだと思います。
問題はこちら。
将臣と戦場で再会し、平家の還内府と源氏の神子だと認識しあった二人。
その後お互い平家/源氏を捨てられなかった二人は夢で話をし覚悟を決めて、壇ノ浦の戦いに向かいます。
その時点で彼は「いつか帰る日……か。三年も前に、そんな日は来ないって思ってたけどな」と話していました。
壇ノ浦の戦いは寿永4年3月24日(1185年4月25日)で宇治川の戦いがあった頃から1年ほど経過しています。
にもかかわらず「三年も前に」発言、謎が深まりました。
私の記憶違いだとして屋島に戦いを基準にしても、寿永4年2月19日(1185年3月22日)となるため大差ありません。
じゃあほかにどんな可能性があるかな、と考えた時に創作の都合で生まれた平泉ルートでした。
このルートって三草山の戦い以降すこしずつ戦いが短縮されています。
まず三草山からすぐ平家の本拠地である福原を攻めたため、一ノ谷の戦いが存在しません。
ずると必然的に屋島の戦いや壇ノ浦の戦いが早くやってくることになります。
まぁだとしても宇治川の戦いが始まった年は変わらないので、三年半から三年に短くなってるのは計算できませんが…それでも、四年は経ってないんだなと推測できます。
厄介なのは将臣の適当な性格です。半年くらい平気で切り捨てて考えていそう…。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
というわけで結論、将臣は寿永元年9月(1180年8月)に京へ来たと当ブログでは推察したいと思います。
平清盛が亡くなる半年前なので、亡くなった姿を見ていてもおかしくありません。
9月か…計算が間違っていなければ新暦だと8月のはずなので紅葉よりもまだ暑い!という感覚の方が強いんでしょうか。
でも今よりは暑くないんでしょうね…何度くらいだったんだろう。
平安時代を基準に調べてみたらこんなサイトがありました。
こちらによるとちょうど遙か~遙か3に該当する800年~1300年は世界的に見ても比較的暑かったようです。
宮中で行なわれた花見の時間帯から平安時代の気温は高かった、平安時代のときには30度を超える真夏日が多い時期があったなどと書かれていました。
いや無理。なんでやねん、全然涼しくないやんけ。
ちなみに調べ方を少し変えると日本に中世温暖化は存在しなかったという研究結果も存在していました。
どっちが正しいかは分かりません。この時代に居たことのある人が現代に居ないので。
ちょっと脱線したので、この辺りで終わりたいと思います。
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それでは、おふとんにくるまって。おやすみなさい
小森千代